お金に対する考え方ヒストリー その2
なちこです。
これまでの人生での、自分のお金に対する考え方の棚卸しをしてみてます。
その1はこちら。
続きまして、中学・高校あたりの頃。
中学・高校の時のおこづかいは、
中1:月1,000円、中2:月2,000円、中3:月3,000円 だった。
そしたら、高校1年生になったら、もしや月10,000円!?と思いきや(いや、別に当時は思ってなかったけど)、
高1:月4,000円、高2:月5,000円、高3:月6,000円 だった・・・。
これねぇ、全っ然足りなかったよ。
だって、CDとかも買う年頃だし、ゲーセンも行きたいし、友達と買い物行ったりとかさー、誕生日プレゼント買ったりとかさー、ねぇ・・・。
でも、親に交渉しても無駄だとわかっていたので、頼みの綱はやっぱりおじいちゃんおばあちゃんだった。
親も、もしかしたらそっちの額込みで、この額にしてたのかもしれない。
祖父母も、私の年齢が上がるとそれに合わせてくれる額が増えたので、なんとか友達と遊んだり、古本屋で漫画を買ったりはできてた。
・・・けど、とにかく、服だよね。
未だにここは引っ掛かりがあって、ちょっとコンプレックスだったりする。
「服を買うにはお金がかかる」「ほしい服は手に入らない」
「私は(親の選んだ)着たくない服を我慢して着ないといけない」
「自分で買うにしても、すごく安くてダサいやつか、フリマで見つけたそこそこ気に入ったやつ(当然お古)しか、買えない」
こういう思い込みが、この頃に思い切り染み付いたし、未だに残ってる部分もあって、「服に使うお金」に関しては、まだまだパラダイムシフトしないといけない余地が多い!
好きな服を全然買ってもらえないから(お下がりや、親が勝手に買ってくる趣味の悪い服ばっかり)、服の買い方もあんまり身に付かなくて、中学生の時に一度、お年玉でダッフルコートを買ったことがあったんだけど(すごく勇気出して、新品のやつを!)、サイズが全然合ってなかったってことにしばらく気付かなくて、後になって「それ、男物?」って聞かれて初めてブカブカだったってことに気付いてめっちゃ恥ずかしい思いをしたこともあった・・・。
この話、人にほとんどしたことないな(そんだけ、自分の中で笑いに変えれてないってことかもな)。
そうだ、お年玉の話が出たので、お年玉について。
これって、日本人にとっては、お金に対する考え方が割りと現れるとこだよね。
うちは、よくあるパターンで、親が預かって、貯金しておくって感じでしたねー。
農家の多い地域なので、JAに・・・。
小さい頃は全部預かられて、中学生くらいになると、少しは使えて、残りは貯金へ、みたいな感じだったかな。
で、その後、その貯金はどうなったかというと、高校生になった時にPHSを買ってもらって、その月々の支払いに使われてました!(高3からはケータイになった)
でも、後になって母から聞いた話によると、途中で残高足りなくなって、母が定期的に足してってくれてたらしい。
ありがたやありがたや~(笑)。
なんか、自分がいかにお金のリテラシーなく育ってきたか、みたいなところを棚卸しするつもりで始めたんだけど、意外なところで、感謝の気持ちが出てきて、なかなかいい感じっすね!
その2を書いてて思ったのは、この頃、常に「もっとお金ほしいなー」「友達は、かわいい服とか鞄とか買えてていいなー」って思ってた気がするんだけど、その割りに、「やばい!今月もうおこづかいがない!ピーンチ・・・!!」みたいな切羽詰った状況には陥らなかった気がするんだよね。
それはたぶん、陥りそうになったらおじいちゃんちに行く(祖母は中3の時に他界)、っていう手でなんとかしのいでいたからのような気もするけどね。
そう考えると
「どうしてものピンチの時には、勇気出して頼めば、助けてくれる人はいる」
みたいな考えは、この頃からあったのかもしれない。
勇気出さなくても助けてくれる人がいると尚よかったんだけどねぇ・・・(笑)。
もらったおこづかいを、貯めておくっていう発想は、なかった気がする。
あったらあるだけ、使ってたな。
これは、ある意味今もそうだけど。
でも、ずっとそうだったわけじゃなくて、次の「その3」で書くけど、何か確固たる目的があれば、私はお金を貯めることは嫌いじゃないと思う。
必要に迫られないと貯めないってことかな。
それって、裏返すと、貯めてなくてもそこまで不安じゃないというか、ないならないでなんとかなるって信じれてるってことでもあるのかも。
あー、中学・高校時代のお金に対する考え方で、一番モヤっとしてたのは、「献金」だったかもしれない。
私は親に連れられてキリスト教会に通ってたんだけど、毎週礼拝があって、その中で、献金の時間があるわけ。献金袋が回ってきて、みんなそれぞれいくらか入れる・・・っていう。
特に、中3で洗礼を受けてからは、教会員として扱われて、月に一度、収入の10分の1を献金しましょう、みたいな特別な献金の日があったんだよねー(書いてて思い出したよ、うっわ!!)。
私は高校生だから、もちろんお給料なんてなくて、収入=おこづかいだったわけなんだけど、10分の1って・・・!
今考えてもけっこうな割合ですね。えぐい。
もちろん、信仰のもとに心からそうしたい人は、したらいいと思うけど。
なぜ自分がその時入れたい額を入れるんじゃなく、「10分の1」って、決められてるんだろう・・・(根拠は、聖書の中の言葉だったとは思うんですが)って、思ってた気がするな。
今でこそ、宗教法人の仕組みとか、お金の流れとか、客観的になんとなくはわかるけど、物心ついた時からその中にいて、そういう組織の仕組みとかは見えないように育てられて、信仰さえあればどうにかなるみたいな価値観で育った私は、そもそもなんで神様にお金を捧げる必要があるのかが疑問だったわ。
神様じゃん? 全知全能じゃん? お金なんか必要ないんじゃない?って。
ねぇ?
なんか、お金の話から、宗教の話になってしまいそう。
それはそれでまた別の機会に書くつもりだよん。
つづく
お金に対する考え方ヒストリー その1
なちこです。
お金について考えていくにあたって、これまでの人生で自分にとってお金ってどんな感じだったのか、どんな風にお金と向き合ってきたのかを棚卸ししてみたくなった。
・・・ので、してみます。
まずは、子どもの頃。私は昭和58年生まれ。4つ上の姉が一人。
父は教員で、母(元・教員)はその時々でいろんなパートをしていたように思う。
一般的な中流家庭だったんじゃないかな。
おこづかいは、確か小学1年生で月100円、2年生で月200円・・・みたいな感じだったと思う。6年生で月600円か。
何か学校で必要なものとかがあれば買ってもらえたけど、
ただ「ほしい!」って言ったものを買ってもらえた記憶はほとんどない。
おもちゃはもちろんのこと、特に、服!
「うちは貧乏なんだな」と思ってた期間の記憶が長い。
今考えると、そんなに貧乏じゃなかったと思うんだけど、とにかくなんで買ってもらえないかの説明はなかったか「お金がないからダメ」って言われたかだった気がする。
もしかしたら本当になかったのかもしれないけど・・・。
ちなみに、持家で、土地は本家から相続?かな?
おもちゃとか、服とか、漫画とか、買ってもらえる友達がすごくうらやましかったなー。
月に数回、市内の祖父母の家に行っていたので(母親が教会の奉仕活動をしている日曜日の午後とか)、その時に毎回大抵数千円のおこづかいをもらってた!
これが本当にうれしかった! 普段手に入らない大金!って感じだった。
そのおこづかいで駄菓子屋さんにお菓子を買いに行くのも好きだったし、一番覚えてるのは、よく本屋さんに行って漫画を買ったこと!
そんなにたくさんの巻数出ている作品は買えるわけもないので(1巻だけ買っても、続きが気になるだけだし)、コスパが良い「大長編ドラえもんシリーズ」をよく読んでた。
だけど、おこづかいをくれるおじいちゃんおばあちゃんに対して母親は「やだ、そんなにくれなくていいのに~」とか言うし、もらった私や姉にも「そんなにもらったの!?」とか言うので、なんか罪悪感を感じて、
「あぁ、本当はこんな大金、もらっちゃいけないんだなぁ。うれしいけど、あんまり喜んじゃいけないみたいだ・・・」って思って、いつも申し訳なさそうな表情を作っていた。
うーん、これはけっこうストレスだったなー。
あの時、素直に「やったー!ありがとー!うれしー!」って言えてたら、よかったよね。
父親の口癖は、「働かざるもの食うべからず」だった。
その後、長女(私の姉)が、25年にもわたるひきこもり状態になるとは露知らず・・・。
私は、姉がひきこもりになった意味のひとつは、父親のこの価値観をぶっ壊すためだったんだろうな~とか思ってます(実際、姉は働かずに食って生きている)。
本人がそう意図したわけではないけど。
小4~小5くらいの頃に、『幽遊白書』に、どハマリして、とにかくグッズを買ったり、アニメのビデオをコンプリートしたくて、毎週のようにおこづかいをもらいに祖父母の家に行っていた時期があった。
毎週のように例の罪悪感を感じてたってことだね。
ビデオは、大して見もしないのに、初回限定特典のカードをどうしても集めたい!みたいな動機で買ってたんだった。
これは自分の中ではけっこう黒歴史・・・。
しかも、おじいちゃんやおばあちゃんと話すのが楽しければ、おこづかいもひとつのコミュニケーション手段として悪いものではなかったと思うんだけど、私はおじいちゃんおばあちゃんと話すのも全然楽しくなくて、ほんとにおこづかいもらうためだけに通ってたみたいなもんだったんだよねー。
だから、祖父母の家に着いて、しばらくテレビ見たりお菓子食べたりしながら少ししゃべって、それからおこづかいもらって(内心やったー!って思って)、そっから「じゃあ、そろそろ帰るねー」って言い出すまでが、本当につらかった!
ほんとは、もらったらすぐにでも帰りたいくらいだったんだけど、子どもながらにそれはまずいだろうってわかってて、とにかく不自然でないよう時間を潰しながら、遅々として進まない時計を何回も見ながら「じゃあ、そろそろ帰るねー」って言うタイミングを計ってたなーーー・・・。
でも、今考えると、私が小3の時に姉が不登校になって、よく覚えてないけど、たぶん両親の意識はそこからほぼずっと姉に向いてたと思うんだよね。
だから、その時の私は、自分なりに精神的にいろいろ頑張らなきゃいけなかった時期だったんじゃないかなーとか、推察する。
そう考えると、あの時感じてた罪悪感とかって別に全然重要じゃなくて、むしろよく頑張ってたね~~~(;_;)って言いたくなるような気がする。
子どもだったんだしね。
あ、大事なこと思い出した。
普段は、「ほしい!」って言っても買ってもらえないのが当たり前だったんだけど、親と一緒に本屋に行った時だけは、「どれでも好きな本を3冊」買ってもらえるっていうルールがあって、毎回、何を買ってもらおうか選ぶのは本当に楽しかった。
選んだ本に関して「これはダメ」って言われた覚えはない。
何冊でもっていうんじゃなくて、「3冊」って決まってたのもすごくよかったなぁ~と思うんだよね。いろいろ見比べて、「これぞ!」っていう3冊を選ぶ力が磨かれたと思うから。
このルールに関しては、とても感謝しています。
つづく
やる気の順番 やる気の待ち方
なちこです。
今日は、朝の散歩をしていたら、木漏れ日があまりにも綺麗で、ついつい座って瞑想(もどき)をしてしまった。
といっても、5分くらいだけど。
すごくいい時間だった。本当に。
そして、家に帰るまでの道で、書きたいことが5個くらい浮かんだので、今日はそれを書きまくるぞー!と思って家に着いたんだけど、思わず“Don't Look Back In Anger”の記事を書いてたら、テンションが変わってきて、朝ごはんを食べた後は、すっかり「書くモード」が「読むモード」に変わってしまっていた。
こんな時、うっかりすると以前の自分の思考の癖で「はっ! こんなこと(読書)してる場合じゃない! 書かなきゃ!」って焦るし、自分を責めるんだけど(「やろうと思ったことをやってない私はダメ」攻撃ね)、最近は、そんな反応したところでやる気(書く気)が出るわけじゃないとわかってるので(もっと言えば、自分を責めることで、セルフイメージ低くなるっていう弊害もあるってわかってきたので)、無理して「やらなきゃやらなきゃ」とは思わずに、自分の気持ちがどう動いていくかを観察することにしている。
そのままぐんぐん本を読み続けることもあるし、なんとなーく気持ちが本から離れて、「うーん、洗濯でもするか」って気になる時もあったり、Facebookのフィードを5分くらいチェックしてみてからまた本に戻ったり、おもむろに洗面台の掃除を始めてみたり、ちょっと買い物に行ってこようかと思って出かけたり。
本当にその時々によって「次に何をしたいか」っていう気持ちはとっ散らかっていて、脈略がない。
だけど、私はその「ほんのり気持ちが向いたことを、向いた順に」するようにしてる。
以前の私だったら、「気が向いた順」にやるなんて思いつきもしなかったことだけどね。
例えば、洗濯機を回してから買い物に行って、買い物してる間に洗濯が終わってて、帰ってきたら干す…っていう流れのがどう考えても合理的で効率がよくて、それこそが「正解」で、それをしないなら自分は「愚か」なのだと、ずっと思ってきたような気がする。
優先順位は、客観的に決まってると思ってた。
買い物に行くにしても、せっかく家から出るなら、ついでに図書館に本を返して、ATMにも寄って、あ、コンビニで払わなきゃいけない請求書あったんだった・・・全部準備してから出なきゃ・・・みたいな感じで、どれだけ効率よく動けるかってことが大事だと思ってた。
だけど実際は、やらなければならないことに別のやらなければならないことをくっつけてるうちに、買い物に行く気力もなくなっちゃったりとかして。
そんな理由で動けなくなってしまう自分を「ほんとダメだなぁ、私…」って思うことも多かった。
「あ、あれしよっかな」って気分とか直感でふと思っても、頭で論理的に「なんで今それ!?それじゃなくて、こっちが優先だろ!」って軌道修正してしまうと、そのほのかなやる気もしぼんじゃうし、かといって「やらなければならない」と思ってることに対するやる気が湧いてくるわけでもないしで、なーんか何もかもが嫌になっちゃって、もうただただ何もせず寝っ転がってたい気分になっちゃうんだよねー。
こういう感じ、わかる?
「自分を大切にする」ってことに取り組み始めてからは、誰に何と言われようと、「やりたいと思った時に、やりたいと思ったその気持ちを大切にして、やりたいと思ったことをやろう」と決めて、
洗濯も、洗い物も、ラグにコロコロかけるのも、掃除も片付けもメールの返信も、「やろっかな」っていう気持ちが顔をのぞかせるまで、とにかく待つことにした。
そう。
無理矢理、やる気を、捏造しない!
そうすると、何日も台所のシンクに食器が溜まっていったりとか、「なんでこのタイミングでそれ!?」って思うようなことも思い浮かんだりもするんだけど、それによる実害ってほっとんどないし、別に誰にも何も言われないんだよね(一人暮らしだからってのもあるけども)。
しかも、一見効率の悪い順番でやったことでも、結果的に何も問題なかったり、むしろいい結果になったりする。
何より、無理矢理(自分に)やらされた感がないので、変にふて腐れて何もかもにやる気をなくしたり、「もう絶対やーらね!」って拗ねることもなくなった。
たぶん、今までの人生で一番ストレスの少ない生活を送れてるのは、こういう考え方の変化のおかげも大きいと思う。
あとは、なぜか、「あー、これをしてからじゃないと、これはできないことになってたんだなー」っていう感覚も感じるようになった。
その順番には論理的な根拠は何にもないんだけどね、ただ、さっきまで全っ然やる気にならなかったこと(でもやらなければならないと焦ってたこと)なのに、すぐにそれに取りかかるんじゃなくて、一旦思いついた別のこと(買い物とか歯磨きとか漫画を読むとか)を挟むと、不思議とやる気になってたりするんだわ、これが。
そういうことが増えると、いつ何をしてても、「今これをしていることには、意味がある」って思えるから、「こんなことしてる場合じゃない・・・!」ってソワソワしなくなって、「今この瞬間」を味わえるようになってきた。
で、話を戻すと、今日書こうと思ってた記事は(今のところ)書けなかったけど、なぜか、何週間も前から「洗濯しなきゃなーしなきゃなー」と思いながらもできずにいたダウンジャケットの洗濯(手洗い+洗濯機)が、今日はすんなりできてしまった!
今干してて、乾けば、これまた「しなきゃなーしなきゃなー」と思ってた衣替えも、やっとできる!!
なんだこれ!?
あんなに「もーほんとやる気出ないわー…このまま今年の冬まで出ないかもしれないわーw」と思ってたのにー!
ほんとにね、人の気分なんて、わかんないもんですよ。
だから、自分の頭で考えられる範囲なんてほんとたかが知れてると思って、直感とか「なんとなーく思いついたこと」を丁寧に扱ってみる、
これ、やってみる価値あると思うよ。
“Don't Look Back In Anger”
一昨日の記事にも書いたけど、一週間前くらいからOasisの「Whatever」と「Don't Look Back In Anger」がヘビーローテーション。
きっかけは、知り合いがやってる事業の紹介ムービーのBGMで、「Whatever」が使われてたから。
何回も聞いたことはある曲だったけど、タイトルもアーティストも知らなかった。
洋楽をあんまり聴かない私でも聞いたことあるってことは、CMに使われてたとか、よっぽど有名でラジオでよく流れてたとかそういうことなんだろうな、じゃあ有名なアーティストだろうな、たぶんだけど、Oasis?と思って調べたらやっぱりそうだった。当たった時は、よっしゃ、って感じだった(笑)。
Oasisの曲名を1曲も知らずに33歳まで生きてきたんだなーとか思う。
でも、Oasis自体はかなり有名なバンドのはずだから、他にもなんか聞いたことある曲はいくつかあるやろな~と思って調べたら、「Don't Look Back In Anger」と「Wonderwall」がヒット。
そこから、「Whatever」と「Don't Look Back In Anger」が気に入っちゃって、かけまくり聴きまくり、頭の中でぐるぐる回りまくり。
てか、めっちゃいい曲じゃね!?(そりゃそーでしょ^^;)
そうだ、あと、私が大好きなアメリカのドラマ「LOST」で、チャーリーっていうキャラが出てくるんだけど、そのチャーリーがやってたドライブシャフトっていうバンドのモデルがたぶんOasisだったんだよな~。思い出した。
兄弟の確執とか、そのまんまエピソードに使ってて、それを見て、いつかOasis聴いてみようって思ってたんだけどね。10年近く経ってたな。
今朝も、日課の散歩に出て、イヤホンで聴きながら、歩きながらサビの歌詞を歌ってた。
英語の意味がよくわからなくても心惹かれるってのがまずそれだけで、いい曲なんだろうなーと思う(それって、コード進行が好きってことなのかな?)。
でも、強いて言えば、“too late”という言葉の響きが、なぜか私は好きな気がする。
切なさがつきまとうからかな。
あと、“So, Sally can wait"っていう歌詞が生まれたのは、ノエル(兄)がテキトーに歌ってたのをリアム(弟)が聞き間違えた→「それめっちゃよくね!?」って盛り上がって書き上げたっていうエピソードがあるらしくて(ネットの情報です)、
それってもしかしたら(あくまでも私の推測だけど)、“Her soul slides away"っていう言葉を歌いたくて、それと上手く韻を踏むフレーズを探してたんじゃないかな~って思うんだよね。
私も、例えば短歌の上の句だけいいのが浮かんで、それに合う下の句をずっと探してたりする時があって(このブログのタイトルもそうだけど)、それにピタッ!っと合う言葉が降ってきた時は、「よっしゃーー!!!」ってなる。
“So, Sally can wait"って聞こえたリアムは、そんな感じだったんじゃないかなって、勝手に想像するんだ。
空耳する準備が整ってたんだよ、きっと。(あくまでも勝手な妄想ですよw)
それから、今日は初めて、“Don't Look Back In Anger” って、どういう意味なんだろ?って考えた。
直訳すれば、「怒りの中で、振り返らないで」だろうな。
もしくは「怒りをもって、振り返らないで」かな。
歌詞全体の文脈の中で読まないと、ほんとのところはわかんないな、と思ってそこまでで考えるのをやめたけど。
そうして家に帰ってきて、ここ最近いつもそうしているように、PCを立ち上げて、まずYoutubeで“Don't Look Back In Anger” を聴こうと思ってGoogleで検索した。
そしたら、いつもとちょっと違う画面になった。
シンクロしてるなぁ、って思った。
私はある時期から、不勉強覚悟で、ニュースはあんまり見ない生活にしていて(暗いニュースに影響され過ぎないため)、このマンチェスターのテロのことも全然知らなかったんだけど、
Oasisというバンドの存在感や「Don't Look Back In Anger」 という曲の持つエネルギーの大きさを知るには、とてもふさわしいエピソードのように感じた。
“Don't Look Back In Anger” という言葉の意味を知るのにも、ね。
お金の勉強を始めよう
お金の不安がなかったら、もう何も不安じゃないかもしれない。
それって、けっこうすごいかも。
実家にはひきこもり歴25年の姉もいるし(家族関係)、
これから自分の仕事を自分でつくっていかなきゃいけないわけだけど(生きがい、働き方)、
それはもう不安じゃないっていうか、
お金のことがどうにかなりさえすれば、いくらでもどうにでもなるって感じかな。
だから、まず私がすべきことは、お金について勉強することだ。
今日はこの本を読み終えた。
(おわりに より)
今から20年前、「これからは英語を勉強した方ほうがいい」と言われていました。
そしてほどなく国際化の波が押し寄せ、英語は強力な武器となりました。
10年前には「これからはパソコンができたほうがいい」と言われ、実際にパソコンなしでは仕事にならない時代がやってきました。
そしてこれからは、「お金の知性」が必要となる時代となりました。(p.188)
ってとこが、すごく印象的だった・・・。
心屋ぢんさんの、お金に関する考え方もすごく好きで、この本もよく読み返すんだけど、
お金に関して、知っておかなきゃいけないことって、2段階ある気がする。
1段階目は、『お金の教養』に書いてあるような、「世の中におけるお金の取り扱い方」的な知識。
これは、お金に関する仕事をしていたりすれば、知ってるようなこと。
多くの人は知らないけれど、勉強すれば身に付けることができるし、論理的に説明することのできる仕組みだから、いわゆる常識的なオトナの人なら誰でも、やる気さえあれば辿り着ける段階(だと思う)。
2段階目は、『お金を引き寄せる体質改善!』に書いてあるような、「心のあり方と自分のところにやってくるお金との関係」についての知識や感覚。
そう、感覚。
これは、一見スピリチュアルな価値観に近かったり、論理的に説明のできないことだったりとかして、いわゆる常識的なオトナの人(第1段階の教養がすっかりある人)でも辿り着けなかったりする気がする(常識的であればあるほど、かもしれない)。
「セルフイメージが高い人や、自分の好きなことだけをやってる人には、どんどんお金が入ってくる」みたいな話だから。
私は、2段階目の情報に触れる機会が増えてて、それで自分のお金に対する考え方が改善できた部分もあるけど、なんか足りない気がしてて、今回『お金の教養』を読んだのと、最近イケダハヤトさんのブログを割とちゃんと読むようになったのもあって、
「あ、両方必要なのか~!」
ってのに、気付いた気がする。
確かに、「自分は何もしなくてもお金をもらう価値のある人間だ!」って信じて存在給を上げる(というか、そもそも存在給高かったんだってことを思い出す)のも大事だけど、それだけで現実を変えるには、ちょっと量子的に距離があるというか・・・
マクロな対応ができてても、現実を変えていくにはミクロなとこから手を付けたほうが、この世的には早いってことだよね(自分でも何言ってんのかよくわかってないけどw)。
マインドとテクニックと、両方ね。
よく考えたら、なんでもそうだよね。
植物園で、「1ミリもがんばらないヨガ」
今日は久しぶりに京都府立植物園へ。
友達の主催する小さなイベント「1ミリも頑張らないヨガ講座 vol.2」に参加してきた。
「1ミリも頑張らない」て…!!(笑)
なんかすごくいいでしょ?(о´∀`о)
今まで何度もヨガのクラスやレッスンやイベントには(単発で)参加したことあるけど、確かにいつも「これでいいのかな?」とか不安だったり、ポーズを直されて(アジャストっていうらしいね)なんとなーく恥ずかしかったり…そんな経験したことある人も多いのではないかと思う。
しかし、この「1ミリも頑張らないヨガ講座」、前回は、しょっぱなから寝始める人がいたり(!)、主催者である友達自身もいつの間にか寝ちゃったり…なんて感じだったと知って、何それー(о´∀`о)めっちゃ気楽ーー(≧ω≦)ぜひ体験してみたいー♪ヽ(´▽`)/しかも、場所が植物園!素敵!!…と思って、思い切って行ってみたのでした(思いきった部分は、参加費ですが)。
1ミリも頑張らなくていいので、寝てもいいし、途中で離脱してもいいし、とにかく自由。
植物園の中でも、人の少ないエリアの木立の中に車座になって座って。
まずはチェックイン。参加者5人と講師のユミックさんの自己紹介と今日はどんな気持ちで来たのかと最近の調子などを、順番に話した。
それから、これは意外だったんだけど、まず最初に簡単な「座学」があった。
ヨガは、運動がメインというよりは、そもそも哲学や思想みたいなものだという認識はあったけど(瞑想も大事な要素だしね)、こういうヨガの集まりで、まず座学で話を聞くってのは初めてだったからなー。
私はぶっちゃけ、ヨガをしに来たというよりは寝に来たつもりだったので(笑)、どのタイミングで寝ようかな~なんてことを考えながら聞いてた。
「ワンネスのその後」っていうテーマでした。
寝たくなったらいつでも寝ようと思ってたけど、意外と眠くならなかったので、そのまま身体を動かすタイムに突入。
とは言え、「頑張らないヨガ」ですから、ポーズをとるというよりは、ストレッチの延長みたいな優しい動きがほとんどだった(ただし、呼吸を意識しながらってとこがポイント)。
それなりに気持ちよく動けてはいたんだけど、私は、動きがどうのってよりは、木陰で風に吹かれ続けてるのがだんだん肌寒くなってきたのと、なんだかんだでみんな「ちゃんと」ヨガしてるのが居心地悪くなってきたのと(笑・だって!せっかく1ミリも頑張らなくていいヨガなのに!)、あとは、すごーくいい光に包まれていたので、記念にどうしても写真を撮っておきたくなって、水筒とスマホを持って、一旦離脱。
ちょっと離れたとこからみんながヨガしてる写真を一枚だけ撮って(あ、さっきの写真ね)、それから日向のベンチで甲羅干しをしてあったまった(眠りに落ちるとこまではいかず)。
15分くらい離れてたかな~。
これがもしフツーのヨガクラスだったら、心配されちゃったり、内容が合わなかったのかな…?って思われちゃったりするのかもしれないけど、最初からルールの共有ができてるから、ほんとに気が楽だったー。
輪に戻ってみると、寝転んでやるポーズになっていて、主催者の友達は、寝転んだまま眠ってる(もはやポーズしてない)感じだったので、私も、「いぇーい!寝よう!」と思って、彼女の隣に寝転がった。
最初はもちろん、講師のユミックさんの声も聞こえてたし、見上げた木立の木漏れ日があまりにも綺麗で、写真を撮ったりしてたんだけど、
気づいたら、眠ってた。
一旦、ハッと気づいて、まだ寝転んでやるポーズの続きをやっている声が聞こえてたから、そのまま二度寝。
次に気づいた時に、ちょうどポーズが終わって、最後の呼吸法に入るとこだったので、「あーこれはやりたい!」と思って、起き上がった。
二度もちゃんと「落ちれた」のは、ほーんとうに気持ちよかったー(о´∀`о)
呼吸法は、片方の鼻の穴を押さえて、片方ずつ呼吸するやつ(名前忘れた)。
右脳と左脳を繋いでる部分の働きを活発にしたり、陽のエネルギーの右半身と陰のエネルギーの左半身のバランスを整える働きがあるそうな。
呼吸に意識を向けるのには、やっぱり時間の流れを変える力があると思った。
ヨガの後は、園内のバラ園に行き、いろんな種類のバラの香りを楽しんできた。
この、紫の丸いポンポンもかわいかったなー(*´∀`)💕
【定点観測】いまの私 20170527
今の自分を書いておく。
無職。
2月24日にリストラ宣告されて、3月末に大好きな職場を退職。
4月~5月前半は、なんか知らんけどめっちゃ忙しかった。
失業給付が出るまでは好きなことしようと思ってたから、ほんと遊んでたし、
とにかく会いたい人に会いに行ってた。
お金の不安はもちろんあって、実際ピンチにもなって、
親に頼み込んだり、“フレンドファウンディング”で友達に支援を頼んでみたり・・・。
ありがたいことになんとかなった。
来週には最初の失業給付が出る見込み。やっと。
最近、Oasisの「Whatever」と「Don’t Look Back In Anger」がヘビーローテーション。
Oasisって、全然ちゃんと聴いたことなかったし1曲も曲名を知らなかったから、超メジャーな代表曲らしいけど、とりあえずこの2曲が好きになれてうれしい。
5月後半に入って、頼まれてた文章を書く時間を4日間くらい取った以外は、思いっきし引きこもってる。
4月からの反動かな。4月からのっていうか、2月24日からの怒涛の日々の。
溜まってた積ん読を片っ端から片付けていくのが心地いい。
眠かったら寝るし、食べたかったら食べる。
できるだけ毎日ウォーキングに出かける。
疎水の森の道へ。
鳥の声 葉擦れ 木漏れ日 水の音。
一週間前くらいから、簡単な筋トレを始めた。
5月中に部屋とPCの中身をある程度整理して、6月はマンガのブログづくりに本腰入れたいなー。
前なら、自分にプレッシャーをかけることで前に進もうとしてた。
何してても「こんなことしてる場合じゃないんじゃない!?」って自分を責めてた。
だけど今は、できるだけ自分を責めないことで、自分がどこまで行けるのかを試してみてる。
常識は置いておいて、どんな罪悪感も要らないってことにして、いかに「今この瞬間」の自分をご機嫌にできるかどうかが大事。
時間は無限にあるかのような波動でいる練習。
3月に恋人ができてから、一度も、深刻に落ち込んだ日がない。
もうこのまま一生これでいこーっと、て思う。
失業給付が出るのが遅くて、生活費がピンチ・・・!ってなった時だって、たぶん一般的な見方では事態は「深刻」だったのかもしれないけど、そりゃあ私も少しの時間、心臓ドキドキ胸がキリキリしたけども、できるだけ「じゃあ、どうすればいいと思う?方法は必ずあるんだよ」って思うようにしたし、できた。
貯金全然ないけど、生活費もギリギリだけど、すごく幸せな毎日だ。
これからのこと考えると、不安になる時もある。
でも、なんとかなるさ~って思うようにしてる。
お金のこと、お金持ちのマインド、もっと勉強したいなって思ってる。
今年中に200万くらい貯金したい。
どうやって?
わかんないけど、「じゃあ、どうすればいいと思う? 方法は必ずあるんだよ」。
こんな風に書いていける場所が、やっぱり私には必要だと思う。
ここ5年くらいは、怖がってFacebookの友達限定公開の設定で書いてきたし、
それはそれで必要な期間だったなって思うけど、
そろそろ「世界は私の味方だ」って信じて、もっと気楽にオープンに書いていっても何も問題は起こらないんだろうな。
12年前に初めてブログを始めた時には考えもしなかったようなことがいろいろ起こってて、それに順応していくのは、なかなか難しいことだった。
けど、もうそれもあんまし考えなくていいのかも。
中途半端なままとじてみる。