最初から、「完成形」だったわけじゃない
今朝も、朝の散歩に出かけて、森の中で少しだけ瞑想してみた。
瞑想といっても、誰かにちゃんと教わったことがあるわけじゃないので、自己啓発書とかで読みかじった知識の範囲内で、なんとなくこんな感じかな?っていう、自分なりの「瞑想もどき」である。
心地よいと感じる陽だまりに座って(胡坐)、目をつむって、ただ呼吸に意識を向けるくらい。
何かが思い浮かんだら、思い浮かんだままにしておく。
思い浮かんだことに意識がいってるのに気付いたら、また呼吸に意識を戻す。
頭の中で何か「声」を出してないと落ち着かない場合は、呼吸に合わせて
「スー、ハー、スー、ハー、・・・」って“言う”といいかもね(心の声でね)。
何十分もできないし、今の自分にする必要ないかなと思ってるので、ほんの5分くらい。
それでも、すごく気持ちいい。
目を開けると、自分の周りに、小さな生きものたちが生きているのがよく見えるようになる。
座ったときに、手をどうしようかちょっとだけ迷う。
よくヨガのレッスンとかで見かけるスタイル(親指と人差し指で輪をつくって、掌を上に向け、他の3本は軽く曲げて、手首をひざの上辺りにのせる)にしてみよっかな~?とかも思うんだけど、
←これね
この形にする意味を知らないので、意味も知らずにやるのはどーなんだ・・・ってな気分になっちゃうんだよね。
ということで、とりあえず手首はひざ辺りに乗せて、掌と指はだらりとしておいた。
この状態で、しばらく呼吸。
でも、なんだか不思議なことに、少ししたら指で輪っかをつくってみたくなってきた。
なので、つくってみた。
手首から先はだらーんとしたまま。
なんか、この方がなんとなく手の辺りのエネルギーのめぐりがいいような?
ただの錯覚かもしれないが。
そのまままた呼吸していたら、掌をひざの上あたりに引き上げたくなってきた。
なので、そうしてみた。
掌は、横に向けてる。
そのまま、また呼吸。スー、ハー、スー、ハー。
最後に、なんとなーく、やっぱり掌を上に向けてみた。
うん、よくわかんないけど、段階を踏んで「そうしたいような気がしたから、そうしてみた」満足感がある。
5分くらいしかかかってないけど、これをやってみて感じたこと。
ヨガのレッスンで教わるようなことってのは、
どこかの誰かが昔、きっと必要に迫られて、何が何だかよくわからないところから、自分の体を観察したり、研究したりして、「こう動かすと、こういう効果がある」とか「こういう形で止めておくと、エネルギーがこう流れる」とか、なんかそういう体験をしてみて、データを集め、体系立てたものが、
ある意味「完成された形で」私たちの前に、はいどーぞ、出来上がってるよー、って
差し出されているんだなぁということ。
私たちは、完成された小説を読んだら、
なんか作者の人は最初からその完成された形で書けたかのように感じてしまう。
それで「すごいなー、自分にはできないなー」とか思ったりして。
だけど、作者も、いろんな試行錯誤の末にその状態を「完成」ってことにしたはず。
ブログもね、
もう何百記事とか何千記事もアップされてて、何年も続いてて、毎日のように更新されているしっかりしたデザインの、完成されたブログを見たら、
なんか最初からここまで整ったブログとして始めれてたかのように感じてしまう。
それと比べて、自分のブログは・・・とか思ったりして。
だけど、カテゴリー分けにしろ、文章の長さにしろ、画像の入れ方、リンクの貼り方、顔文字の使い方、文字の色や大きさ・・・全部、それぞれのブログ主が、いろいろ試行錯誤して、自分なりのやり方を模索して、見につけたからこそ、その「完成」に至ってるんだよね。
ヨガも、出来上がったところだけ教えてもらっても、その真髄は本当はわからないんじゃないかな。
ひとつずつ、それができたときと同じステップを自分なりに辿ったら、なぞったら、
どうやって、なぜ、それが今在る完成形になっていったのかがわかる。
最初は全然完成形じゃなかったことがわかる。
私が今朝自分の手を使ってやってみたのは、あくまでも疑似体験だと思うけど、
そんなことに気付けたのは、本当に大きかった。
ちなみに、今画像探してて気付いたけど、
輪っかつくるの、
親指と人差し指じゃなくて、
親指と中指だっ!!!(笑)