なちこライブラリー Nachico Library

なちこが書いた文章の置き場

誰かに雇われて働くか、自分で自分を雇うか、それが問題だ。(人はもっと楽しく働けるはず)

 

なちこです。

夏至が過ぎました。

陽極まって陰に転ずる。

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半夏生(はんげしょう)

 

ちょっとまとまりなく書きます。

 

貧乏ごっこwに終わりを告げる時が、来たようです。

まだ確定させていないけど、私を必要としてくれる人がいて、新しいお志事にとりかかることになりそうな予感。

 

人生が動く音って、聞いたことあります?

「スーーーッ」みたいな感じの時もあるし、「ガタゴト」とか「シュッッッ!!」とか、いろいろあるんだろうなー。

なんか今回は、「カタカタ カタカタ」みたいな感じかな(なんのこっちゃ)。

 

働かなくても、一応暮らしてはいける最低限のお金がもらえる生活はなかなか楽しかったけど、やっぱり失業給付は「生命維持費」程度にしかならないなーと、改めて感じました。

もちろん、あってくれて本当に助かったし、最低限のお金しかないからこそ「自分が譲れないものって何なのか?」みたいのがわかったり、普段は絶対に置かれないような状況に自分を置いてみることで(1日260円で暮らすとか、10日間電車に乗らないとか)当たり前だと思ってたことがただの思い込みだったんだと気付いたり、とにかく得るものはいろいろあったんですが、

さすがに税金や保険料を払わないといけない時期が来ると、「生命維持費」じゃ足りねーよ!!ってなります(失業を理由に減免申請してさえ、そう感じます)。

7年前(新卒で就職した会社辞めた時)も同じこと思った氣がするわ、そーいえばw

 

前職を辞めた時は、「よし、フリーランスでやっていくぞ」と意気込んだけど、

それに向けて楽しく積極的に動けたかというとそうでもなくて(後々つながっていく種はたくさん蒔いてると思うけど)、

だけど、そんな自分を「ダメだなぁ・・・」と責めるのも違うやろーという確信があって、

可能な限り「やりたいことだけをやる生活」に挑戦しつつ、

どうするのが「今の私」にとっていい選択なんだろう?とひたすら考えてきた日々でした(今も続いてます)。

 

フリーでやっていく自信がまだないので(という言い方は、たぶんダミーで、そう思い込みたい何か別の理由があるんだろうけど・・・少なくとも、意識の上では「まだ自信ない」が一番しっくりくる)、

一旦またどこかで雇ってもらい、気楽に働きながら、フリーになる準備をした方がいいのかなーとかも考え始めて。

 

失業給付を受給するために必要だから始めた求職活動も、最初は便宜的に形だけでも・・・と思ってたけど、自分が考えていたよりも興味を持てる求人はあって(多くはないけど)、受給期間が終了するまでにフリーで身を立てる目処がとても立ちそうにない現状と相まって、「これは!ちょっとマジメに応募してみようかな!」という感じになってきてました。

それはつまり、2月23日(リストラ宣告前夜)に思い描いていたプランに立ち返る、みたいな感覚なわけです。

あの時は、ミュージアムの勤務を週5から週4に減らして、空いた週1で物書きを始めようと思ってた。

 

とは言え、焦って選んで、妥協してしまうのも怖かった。

 

“何かしらの仕事をしなきゃ!早く!”って思うと、判断力が鈍る。

だけど、雇用保険には「個別延長給付」という制度があって、運のいいことに私は、解雇された&正規雇用された経験が少ないので、「それなりに求職活動をしても結果が振るわなければ、給付期間を2ヶ月延長できると思いますよ」(判断するのはあくまでもハローワークの基準)という対象の条件にひっかかったのです。

そんなのあるって知らんかったし!

嬉しい驚き!(糠喜びに終わる可能性も考えて、冷静に喜んどいたけど!)

 

雇われて働くにしろ、自営業でやってくにしろ、

あと1ヶ月以内に決めないといけないと思っていたのが、

あと3ヶ月以内に・・・に変わったわけです。すごい!

そのおかげで、本当に、焦らず、妥協しないで選べた。

「今の私にぴったりの職が、かならずあるはず。どこかに埋もれてるはず」と思って、目を皿のようにして探してました。

まぁ、応募してみて、採用されなかったら、ただご縁がなかったってことで、やっぱりフリーの道行けってことなのかも・・・ってそこでまた考えてもいいしね。 

 

3月に離職した時点で、今後はもう図書館司書はしないつもりだった。

図書館で働くことは好きだけど、このご時勢、この国で非正規で図書館で働くことは、ワーキングプアになることとほぼ同義だから。

図書館やめたの私だ - Togetterまとめ ←こんなのもあるよ

搾取されるのも、自分を安く売るのも、私はもう選べなかった。

よっぽど「ここの図書館が好きだから!」とか(私にとってのミュージアムはこれでした)、生活費は家族が稼いでくれているから、それをサポートするくらいの額が稼げればOK(そして、それが図書館の仕事を通してできるならうれしい)、みたいな場合以外はね。

だから、もうその選択肢はないなー、憧れてた「司書さん」はもう十分経験できたんだと思おう、次のステージに進む時なんだ、って思ってた。

 

だけど、先週私が見つけた求人は、司書という職に対して、きちんとそれなりの対価を払う意志があるように思えたんですよ。なかなか見かけない条件。

これなら、やってみたい!って思わせてくれたのがうれしかった。

そう思ってみて初めて、

「なーんだ、やっぱりまだもう少し、図書館司書をしたかったんだなー、私」って気付いたし。

 

フリーランスの司書」みたいなのも考えたことはあって、

(これ参考記事な→ 「フリーライブラリアン」のすすめ « マガジン航[kɔː]

司書的な思考法や司書スキルを活かした仕事はフリーでもできるけど、

やっぱり図書館司書には、ホームグラウンドとなる施設が必要だなぁと思うんだよね(それがたとえ小さな、動く図書館であったりしても)。

まぁ、その施設に所属してる必要は、ないのかもしれへんけど(つまり、国立国会図書館を自分のホームグラウンドと考える、フリーの司書とか)。

「この図書館の資料に関してなら、まかせてください!」と言えるのが、やはり司書としての矜持だし、醍醐味でもあると思うんです。

 

ということで、

私はどうやらまた図書館に所属する司書として働くことになりそうです(詳細はまた今度)。

 

4月の時点では、実は6/20~7/1は、ヴィパッサナー瞑想の合宿に参加しようかと思って、申し込みをしていたんだよね。

申し込んだ時点でキャンセル待ちで、その後「まだキャンセル待ちの意志がありますか?」といった再確認のメールが来ていたことに気付かず、自動的にキャンセルされてしまったと気付いた時は、「痛恨のミス・・・!!」って感じで本当にショックだったんだけど、

もしもヴィパッサナーに行っていたら、この図書館の求人には出合わず、面接にも間に合わず、私の人生には関係ないこととして、存在しないも同じだったに違いない。

そう考えると、瞑想合宿に行かないことになったのも腑に落ちた氣がしたし、

まだ少し進むことを怖がっているこの目の前に現れた道も、何か意味があるってことなんだろうなーとか思えたりする。

 

とはいえ、

また雇われて、日々の仕事に追われて疲れてしまうかもしれない・・・と思うと怖い。

組織に属するめんどくささばっかにフォーカスしてしまうくらい、また心に余裕をなくしてしまったらどうしよう・・・とか考えちゃう。

 

だけど、それを乗り越える術を、私はもう持ってるんだった、ってことにさっき気付いた。

2012年に、初めてスタッフとして船に乗る時に書いた記事↓

不安はいろいろあるよ。
でも、あってあたりまえだよね。
だって、初めてのことなんだもん。
だから、不安だから…は乗らない理由にはならんかった。

これだっ!

ふーーーーーーー。解決!!(早っっ!)

でもほんと、これですよ^^

 

本当は、残り3ヶ月に賭けて、フリーで食ってく道をとことん模索した方がいいんじゃない? そっちが正解なんじゃない?・・・って囁く声も聞こえる氣もする。

でも、正解なんてないやんな。

しいて言えば、選んだ方を正解だったと思えれば、それが正解になる。だよね。

 

転職サイトに登録したりする中で、自分の強みや性格を判断してくれるツールを何個か試したけど、

やっぱり私は「慎重派」だし、「計画的(段取り)」の人だとわかったんだよねー。

「用意周到」とも言えるかもしれない。「有言実行」もあるかな?

不安に包まれながらの背水の陣スタイルで、いいパフォーマンスが発揮できるとは、あまり思えない。

安全地帯で、隅々まで検討し、微に入り細に入り準備をして、いろんなパターンに対応できるように想定をした上で、満を持してリリースする・・・!

そんな人だもの。

時間かかってもいいし、また葛藤してもいいから、とりあえずお金の心配をなくしてからまた考え始めよう。

 

それから、この貧乏ごっこwの日々を経て、

私は、たぶん、お金を使わないように使わないようにする人じゃなくて、

たくさん稼いでたくさん楽しく使う人なんだろうなーと思った。

だから、「生命維持費」でこまこまやってる場合じゃないんだよ。

稼がないのももったいないし、使わないのももったいない。

やりくりって楽しいし、やりくり上手ってかっこいいと思ってたから、

ってことは、そんなにお金がなくてもやりくりで楽しく生きればいっかって氣でいたけど、

私、気付いたんだわ。

やりくりって、別に、どんなレベルでもできるんだってことに!

つまり、月収10万円でも、やりくりはできるし、

月収1000万円でも、やりくりは楽しめる!!!

なら、私は月収1000万円の方でやりくり楽しみたいわ~♪

って思った。

おーーーー。

 

 

長くなりました。

最後に、タイトルに入れた「(人はもっと楽しく働けるはず)」は、

イケダハヤトさんの言葉です。

最近大好きです。

 

おやすみなさい。

なちこのライフヒストリー その6 会社員・ニート・図書館員2007-2011

ライフヒストリー、つづきです。

最初から全部読んでくれてる人、ありがとう。

その7で終わる予定ですので、もう少しお付き合いください!

その1~その5はこちらー。

なちこのライフヒストリー その1 幼少期1983-1989 

なちこのライフヒストリー その2 小学校1990-1995 

なちこのライフヒストリー その3 中学校1996-1999 

なちこのライフヒストリー その4 高校1999-2002 

なちこのライフヒストリー その5 大学2002-2007 

 

さて、大学を卒業して、会社員になりました。

地元のIT企業で、未経験からのシステムエンジニア(つーか、プログラマやね)。

私がプログラミングを勉強したいと思ったのは、
「世の中、コンピュータで動いてるものはたくさんあるのに、その中で何が起こってどう動きにつながってるのかを私は全く知らない。知らなくても生きてはいけるけど、もしもその仕組みを少しだけでも知ることができたら、自分の見える世界は変わるのでは?」
って、思ったからなのね。

そしてそのとおり、システム開発の仕事をしてみたことで、世の中の見方は少し変わったと思います。
特に、それまで「これはどうしようもないことなんだ」と思っていたようなことが、実は「やり方か頼み方さえわかれば、どうしようもなくなんかないんだ」と思えるようになったのは大きかった。

でも、プログラマの仕事は私には全然向いてなかったわー。

知らないことを知るのは面白かったけど、狭い世界だったなーと思います。

所属していた小さな会社と、出向先の大企業の本社と、両方経験できたのはなかなか良かった。


クルーズを越えたつながりで、ピースボールの仲間たちとよく遊んでたのもこの頃。
毎週のように集まって、フットサルの練習したり、飲んだり。
みんなで車で出かけたりもしたなー。片思いしたりもして、けっこう青春だった!

同じクルーズの友達では、新聞局のメンツがよく会ってた。
(私はブッカーで、新聞はやってなかったんだけど、新聞局長と仲がよかったので)

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この方々は、別に顔出ししても何も言わなさそうだけど、まぁネット社会何があるかわかんないんで一応ぼやかしておきますけどw
この写真見て、関西の「タコパ」に当たるのは、関東ではもしや「餃子パーティー」かな!?と思った。
この人口密度(1Kに12人・・・!※撮影者含む)も、船仲間だからこそやな~って感じがする^^

 

2ヶ月に1回会えるか会えないかだったけど、遠距離恋愛もした。
もともと船に乗る前から友達だった人で、久しぶりに東京に出てきたその人に会ったら意気投合って感じで。

私は、仕事で疲れてた時だったから、誰かとそういう関係になれたことにはけっこう救われる思いだったけど、ちょっと依存気味だったから、メールの返信がないことにすごく不安になったりとかして、あんまり幸せな恋愛じゃなかったかもなーとか、振り返って思う。でも、経験としては、よかったと思う。

 

高校時代と大学時代のところで、姉のことについて書かなかったのは、思い出した時にそれが「実感」だからだと思う。
その頃には、姉がどこにも属さず、働かずにずっと家にいることは、あまりにも当たり前になっていて、特別何かを思わなくなっていたという感じ。

両親は、不登校が始まった当初は、怒ったり叱ったりなだめすかしたりして、なんとか学校に行かせようといていた(と思う)って、その2で書いたけど、それでも姉が行かないとなると、病院(精神科?)に連れて行ったり、フリースクール(?)を探して連れて行ったりして、とにかくあれやこれややってた氣がする。よく覚えてないけど。

両親は、ひととおり思いつくことを姉にやってみた結果、疲れちゃったのか、「すこし待ってみよう」と思ったのか、そのへんは知らんけど、不登校から数年後には、「もう何もしない」っていうスタンスになっていた。

ちなみに、その頃、私はまったくの蚊帳の外。
心配をかけまいと思ってたのか、話してもわからないだろうと思われてたのか、それとも心に余裕がなさすぎて完全に忘れられてたのかは知らんけど、とにかく、姉のことについて、私が何かを聞かされたり、聞かれたり、その話題の中に入れてもらったことは一度もなかった。

当時は、子どもだし、そういうもんかと思っていたけど、大人になって思うのは「そりゃないよ」って感じかな。
でも、まぁ、私も、中学生活・高校受験→高校生活・大学受験→大学生活・海外経験etc.で、自分のことでいっぱいいっぱいだったから、正直お姉ちゃんのことを自分事として考えるなんて無理な話だった(そりゃそうだ。ひきこもりのきょうだいは、まずはとにかく自分の人生を生きてほしいし、自分ばっかり幸せになっていく気がすることを、自分に許してあげてほしい)。

 

それが、就職して、実家にいる時間が増えて、たぶん気付いたら自分自身「大人」になってたのもあって、急に「あれ? このままではなんかやばいんじゃない?」って氣がしたんだったかな。
もしくは、ちょっと時間に余裕ができて「お姉ちゃんのことで、自分に何かできることがあるなら、やった方がいいかもしれない。家族だし」みたいな殊勝なこと思ったのかもしれない。

覚えてるのは、たまたま読んでたビジネス系の新書に、ひきこもりの訪問サポートみたいなサービスが紹介してあって、そういう事業があるってことも知らなかったもんだから「え!こんなのあるの!?これいいんじゃない!?」って思って、親に言ってみたんだよね。「何かしないと・・・!できることはあるはずだよ!?」って感じで。
正直、「親が死んだら私どうすればいいの?」っていう不安が大きかった。

結論だけ書くと、そのサービスを頼んでみることにしたものの、その過程で両親がいかに勉強不足かがわかって心底がっかりしてしまったのと、姉が訪問サポートに全く乗り気じゃなかったので(「どうせ金で雇われてるから来るだけなんでしょ!」っていう姉の拒絶の言葉は、いろんな情報を含んでいて、今考えると興味深い)、特に何の成果もなく、また元の生活に戻ってしまったんでした。

 

私は、そもそも仕事で疲れていたところに、その一件でさらに疲れ、「もう、この家にはいたくない」と思うようになっていた。

そう思わせた一番の要素は、日常的に繰り返される、姉と父の口論。

姉と父は仲が悪くて、ほぼ毎日口喧嘩みたいのをしているのね。
きっかけはいつも些細なことだけど、私が感じるに、姉が大切にしたいことを父がとりあわず、馬鹿にしたり無視したり軽く一蹴したりすることに端を発することが多い氣がする(それを見ていると、私も吐き気がしたりする)。

確かに姉は姉ですべてにおいて子どもっぽいのだけど(私も時にスルーしたくはなる)、だからといって、無下に扱うのはひどい。

姉が、小さな子どもみたいに泣き叫んで汚い言葉で父を罵ると、父もその言葉尻にいちいち反応して、やり返しちゃうんだよね・・・これが、本当に聞いてて苦痛だった。

馬鹿馬鹿しいのに、本人たちはいたって真剣で、毎日のように同じことを繰り返してる。それをほぼ毎日聞かされてみ? 頭おかしくなりそうになってくるよ。

 

結局、親に借りてた約200万円の借金を2年で完済して、その後1年で100万くらい貯めて(ボーナスあったからねー)、当初の予定どおり、会社は3年で辞めた。
最後の方は疲れ切って、若干うつ。


 
2010年4月~ 東京一人暮らし時代。

実家の居心地は本当に悪くて、とてもじゃないけどもういられなかった。
もともと一人暮らしがしてみたかったし、東京で暮らす経験もしてみたかったから、会社に所属してる間に部屋を探して契約して、「もう戻ってくることはない」くらいの悲壮感で実家を離れて(今思い返すとちょっと笑えるけど)、西東京市に引っ越した。


そっからは、本当に働きたくなくて、貯金と失業保険でしばらくニート

たまに友達に会ったりはしてたけど、基本的にはひきこもりな生活だったかな。

心が疲れていたから、何をするでもなく過ごす日が多くて、一日のうちで出かけたのが図書館だけだったって日もけっこうあった。
私にとって図書館は、やっぱり居心地がよかった。

そんな日々を過ごす中で、ある日ふと、ひきこもりについての本を読んでみようか・・・そういや読んだことなかったな・・・と思って読み始めたのね。
そしたら、なんと、あんなにめんどくさいと思っていた姉の氣持ちがわかってわかってしょうがなくて、本読みながらめちゃめちゃ泣いたんだよね。。。

そして、自分が「アダルトチャイルド」であることに気付いた。

姉と両親の関係がうちの家族の問題なのだと思っていたけど、そうじゃなくて、私自身と両親の関係にも問題があったのだ・・・と初めてわかった。
姉は、それを表現するためにひきこもりになったし、今も表現し続けているんだって。

人生の転換期その2って感じでした。

その頃読んだ本のリストはこちら↓

その後新しく出た本もたくさんあると思うけど、今でも参考になる本がたくさんあると思います。

 

2010年11月、全然働きたい気持ちにならないのに、お金が尽きてきて、働かざるを得なくなり、「んーー、ここなら万が一受かってしまったとしても、働いてもいいかな・・・」と思えたのが、新宿にある大学の図書館アルバイト。

受かっちゃいましてw、
生活費ギリギリの収入だったけど、人にも仕事にも恵まれて、働くリハビリにはいい環境でした。
図書館という世界の奥深さや、図書館学(図書館情報学)という学問分野があるということを知ったのも、この時だった。

 

その図書館で働いてる時に3.11が起こって、
生活が変わっていった。

 

その7につづく。

「現実2.0」って何!?

高校・大学のライフヒストリーを書けたところで、
私がとても尊敬している高校・大学時代の同級生で、いつも素晴らしい示唆を与えてくれる須藤峻くん(峻ちゃん)のブログ記事を紹介したいと思います。

 

というのも!

たまたまこの記事読んだんだけど、
私が前に書いた「いまの私が、『世界』とか『人生』って何だと思っているのかという話」を、もっとわかりやすくシンプルに書いてるじゃーないかーーー!!!

って思ったので。

 

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さすがやわ!

「現実2.0」って言い方も、センスあるなぁと思います^^

 

 私が書いたのはこちらです。

なちこのライフヒストリー その5 大学2002-2007

ライフヒストリー、つづきです。

だいぶ長くなってきたね~。

その1~その4はこちら。

 

大学時代。

ちょっと長くなりそやな・・・。シンプルを目指します。

 

まず、大学入学からの半年間は、本当に暗かった(たぶん、鬱っぽかったかも)。

片道2時間半の電車通学と、慣れない大学生活、都会の空気。

高校の時から抱えてた、自分の信仰に対するもやもや。

ものすごく楽しかった高校生活が終わってしまった喪失感。

 

そんな中でも、高校の時から勉強したかった韓国語をとうとう勉強し始めることができたのは、すごくうれしかったなー!

語学のクラスでは、仲のいい友達をつくれたし。

 

クリスチャンサークルに入ったけど、いろいろ考えた末に、「自分はもう信じてないな」とわかって、1年生の夏休みにクリスチャンをやめた。

これを決心するのは、私にとっては、今後一切日本語を使わずに生きていくと決めるのと同じくらいの勇気が要った。それくらい、生まれた時からそこにあって、自分の生き方・考え方を規定してきた「真理」を根こそぎ捨てるような体験だったから。

その後もしばらく「これでよかったのか」と思ってビクビクはしていたけど、すっきりしたのは本当だったし、今は何も後悔してない。

 

国語学習にハマる。

大学1年の終わりに、韓国語学留学を決意する。

 

大学に入学したらすぐに、ピースボートの事務所(ピースボートセンター。通称ピーセン)に行って、ボランティアスタッフ登録をしたんだけど、最初は全然なじめず、駅からは学校と反対方向だったこともあってなかなか足が向かず、なかなか思ってたようには通えなかったなー。

「夢に向かって行動できてない自分」を責めて、更にへこんでた。

 

真面目に授業を受けすぎてて(要領よくできず、友達も少なく)、単位落とすんじゃないかって、本当に恐怖だった・・・。

 

高校時代の校内メル友Tは、進学した大学は別々だったけど、よく夜のドライブに誘ってくれて、どこに行くでもなくただ車を走らせて、また人生の話をしてた。

最初は、これって、恋愛に発展すんのかな?しなのかな?とか思いながら、でもたぶんお互いがそれを考えるのもめんどくさいと思ってた氣がする(それぞれに、恋人がいた時期もあったし)。

好きかどうかはおいといても、その関係をすごく大事にしてくれてたんだな・・・ってのは、もっとずっと何年も後になって気付いたんだ。自然にそうなったように思ってたけど、そいつが誘ってくれてなかったら、私から誘ったりはしなかったんじゃないかな。気付いた時は、ありがたかったなぁと思った。

 

大学3年の春に、韓国留学に行く時期とピースボートに乗る時期を決めたら、締切ができて、とうとうポス貼り(船賃割引を貯めるためのポスター貼り)に本腰を入れられた。

ピーセンに通い始めてからは、大袈裟だけど、「人生変わった」かもしれない。

それくらい、出会ったことのない種類のエネルギッシュな人がたくさんいた。

 

あと、大1の終わりくらいから地元の居酒屋でアルバイトしてたんだけど、そこになぜか、中3の時に私をふった男友達が新人として入ってきて(!)、それがきっかけでなんかいい感じになり(まわりにのせられた感もありw)、今度は向こうから告られて付き合うことに♡

人生初彼氏。

こんなこともあるんだな~としみじみ思った。

 

2005年の4月~9月まで、韓国・ソウルの高麗大学校付属の語学学校(オハクタン)に語学留学。

カルチャーショックもいろいろあったけど、充実した半年間だった!

まーソウルでなんとか暮らしていけるくらいには、身に付いたかな。韓国語。

それって、そんなに高いレベルじゃないけどもw

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私は遠距離恋愛のつらさはそんなに感じなかったけど(自分がしたくてした留学だったし)、クリスチャンだった時の思想の名残で、婚前交渉(結婚前のセ ックス)はすべきじゃないっていう価値観があって、だけどやっぱりしたい自分もいて、その葛藤が本当に苦しかった。

結局その彼とは、日本に帰ってきてすぐ別れてしまったんだけどね。

 

2005年9月に韓国から帰ってきて、人生初ルームシェア

ピーセンの近くに住んで、船賃の割引額を貯めるべく、とにかくポスターを貼りまくった(しかし全クリには届かず・・・残念)。

 

そして、2005年12月~3月。

大学を休学して、ピースボートの地球一周クルーズに参加。

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南アフリカ。ケープペンギンのコロニー。「うひょ~!ペンギンいすぎ!(笑)」

 

この旅を一言で表現するのは難しい!

その後の人生のすべてに影響を与えるだけの経験をして、
「人生は、楽しんでいい」ってことを知った旅だった。

会ったことのない種類の人に、たくさん出会った。

今までしたことのないことに、たくさん挑戦した(失敗や恥ずかしい思いも、たくさん)。

本音で話せる友達が、たくさんできた。

今も、もちろんその頃の友達とはつながってて、いつ会っても、まるで船の上に戻ったかのように話すことができます。

大好きな人たち。

 

船を降りて、ピースボートのスタッフになろうかと思ったんだけど、韓国留学その他で親に借金があったので、それを先に返しちゃおうと思って(&高学歴の新卒カード一応使っておこうかと思いw)、地元のIT企業に就職を決めた。

お金もらいながらプログラミングの勉強ができるのもおいしいなと思って。

とっとと借金を返して、貯金を貯めて、3年くらいで辞めて、また何か好きなことしよう!と思ってた。

 

その6につづく

なちこのライフヒストリー その4 高校1999-2002

 

ライフヒストリー、つづきです。

書くのは楽しいんだけど、エネルギーが要りますな。

勢いで書いたことに対して「それって書く必要あるか?」って自分でチェックを入れちゃうのも、何かもっと自分を表すエピソードがあったのでは?とか思い出すのも、ね。

もうちょっと氣楽に書こうかー。

そういや「60点で満足する」がこのブログの目標(?)だった。

 

その1、その2、その3はこちらです。

 

高校生時代は、けっこう青春でした!

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ルーズソックスも履いてたしw
(この写真は、文化祭でやったクラス演劇の看板の前で撮ったやつ)

ベリーショートの髪型も気に入ってた!

 

進学校で、自分よりも頭のいい人たちがたくさん集まってたのが、たぶんすごく楽しかった理由のひとつだろうな。

頭がいいって、科目の成績がいいってことだけじゃなくて(それも含むけど)、頭の回転が速いとか、アイデアを出す思考方法を持っているとか、そういう感じ。

けっこう自由な校風だったので、頭はいいんだけどおバカな遊びばっかやってる男子とかたくさんいて、毎日飽きなかったw

まだまだシャイな部分も残ってて、最初は友達づくりにも戸惑ったりしてたけど、とにかく人に恵まれた3年間だったから、自分がそこまで頑張らなくてもどんどん友達ができてった感じだったなぁ。


部活には入らず、「フットサル同好会」に入った。

マネージャーじゃなくて、プレーヤーね。

相変わらずサッカーを観るのが好きで。自分の好きなヒデやゾノが、ピッチの上で感じてる氣持ちの100分の1でもいいから理解してみたいなぁ~って思ってね、サッカーはちょっと無理だけどフットサルなら・・・ということで、当時流行り始めてたフットサルをやってみることにしたんでした。

とはいえ、かなり遊びのノリの同好会だったんで、昼休みに校庭でちょっとフットサルやるくらいで。大会とかもほとんど出た覚えがないや。

でも、部室になってた保健室は居心地がよかったし、後輩が入ってきてからは、お揃いのジャージを作ったりもして、すごく楽しかったなぁ~。


文系科目は得意、理系科目は残念、数学は悲惨・・・て感じの成績でした^^;

数学は本当に赤点ばっかり取ってた! 授業中に当てられて、わからなさ過ぎて、でも先生が許してくれなくて、泣いたこともある!w

特に好きだったのは、英語と地理(地理はほぼ常に学年トップをキープ^^)。

1年生と3年生の時に担任だった社会科の先生は、本当に恩師で、この先生のおかげで韓国に興味を持ったし、たぶん私が人生で初めて出会った「気軽にしょっちゅう旅に出かけるスタイルの大人」だったなぁ。授業中にも、旅の話いろいろ聞かせてくれた。
卒業してからは「友達」になり、高校時代のメンツで集まって飲む時には声かけてたし、今もたまに連絡を取り合う仲です^^

 

文化祭が本当に充実してたんだよね~。

私は入学してから知ったんだけど、うちの高校は、2年生と3年生はどのクラスも必ず演劇をやるのが伝統で(2年生は20分くらいのコメディ、3年生は40分くらいのドラマをやるクラスが多い)、それをやりたくてこの学校を選んだって人もいるくらいだった。

文化祭当日の廊下はさながらブロードウェイ、閉会式はさながらアカデミー賞授賞式。本当に盛り上がったし、思い出に残る文化祭でした。

私は、3年生の時に、友達と2人で脚本を担当した(といっても、オリジナル脚本ではなくて、既存の映画を短くリメイクするクラスがほとんど)。
今思えば、公に文才を発揮した最初の機会だったかもしれないな~。

 

高2で知り合った男友達Tとは、校内メル友みたいな感じで、受験勉強に対する疑問とか、人生に対する不安とかをよく語り合ってた(一度も同じクラスにはならなかった人)。
本音でいろんなことを吐き出すには、私にはやっぱり文字の方が合ってたんだろうなと思うし、同じくらいの根暗さの友達が必要だったってことなんだろうな。

受験勉強は、今までの人生で一番頑張ったことのひとつに挙げられるけど、もう絶対にしたくない努力のひとつにも挙げられるわーw

 

高校生クリスチャンのためのサークルみたいなのにも入っていた。
毎週、集会みたいのがあったんだったかなー。

そこで、普段ほとんど出会えない、他の教会や教団の高校生クリスチャンの友達ができて、クリスチャンって言ってもいろんな人がいるんだな・・・クリスチャンでもおしゃれとか恋愛とかしてもいいんだな・・・ブラックジョーク言ってもいいんだな・・・とかが実感としてわかって^^;、だいぶ楽になったような氣がする。

高校の友達を、サークルに勧誘してたりしたのは・・・今となっては黒歴史・・・w

そのサークルはけっこう大規模な団体で、本部が渋谷にあったので、本部のイベントに行くっていう口実でたまに一人で東京に出かけるようになったのも、大人になったみたいでうれしかった。

クリスチャンとして一番熱心に活動したのもたぶんこの時期だったし、同時に、キリスト教に対していろいろな疑問が湧き始めたのもこの時期だった。

 

そして、高校時代の一番の出来事はこれでしょう!

高3の夏に、コンビニに貼ってあったピースボートのポスターに出合い、資料請求をした。

届いたパンフレットを見て「これ、絶対行く!」と決めた。
ボラスタ貯めて、船に乗るぞ、と。

でも、大学受験があったから、すぐにってわけではなくて、大学に入ってからね。

その頃には、志望校もほぼ決まってたので、「高田馬場への通学定期券をGETすること」が、第一志望の早稲田に受かるモチベーションの半分以上を占めることになったw


周りの友達にも恋人がいる人が増えて、私も人並みにステキな恋愛に憧れてはいたけど・・・たくさん片思いをして、何回か告白もして、だけどひとつも実らず終わってしまった高校時代でした。

恋愛はほんとに苦手分野だった。ずっと自信がなくて「私なんかが・・・」って思ってたし。

中3の時にふられた男の子とは、高校が一緒だったので、いい友達だったけどね。

 

 

その5につづく。

 

なちこのライフヒストリー その3 中学校1996-1999

 

ライフヒストリー、つづきです。

これ、書くのけっこう楽しいな~w

その1、その2はこち

 

中学生時代。

 4つの小学校から集まってきた中学で、私は一番遠い学区だったので、ヘルメットをかぶって自転車通学してた。

部活は、ソフトボール部。友達が入るって言ったからじゃあ私も・・・ってのと、好きな人が野球部だからっていう、全然自主的でない理由w

そもそも運動にモチベーションがないし、弱小チームで試合にもほとんど勝ったことがないような部だったから(ヤンキーっぽい子のちょっとしたたまり場にもなってた)、練習もほんとテキトーで、「部活に打ち込む」みたいな中学生ではなかったなぁ。

テキトーな練習は、それはそれで楽しかったけどね。

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勉強は、英語と社会の授業が好きだった。国語もまぁまぁ得意だったはず。

音楽の授業で合唱するのも好きだった~。

美術の授業で、ゴッホの「糸杉」っていう作品をクレヨンで、上田薫の「生たまごB」を絵の具で、それぞれ模写した時は、めっちゃ楽しかった!

数学ができなさ過ぎて、初めて勉強で挫折を味わったのも中学生の時。

相変わらず、どちらかというと優等生体質で、学級委員とかやらされがちだったな・・・(自分から進んでやってたわけではない)。

 

1996年のアトランタオリンピックで、日本がブラジルに勝ったのをきっかけにサッカーに興味をもつようになって、その後ハマる。

ヒデ(中田英寿)、ゾノ(前園真聖)、ナラ(楢崎正剛)が大好きだった♡

まだ横浜フリューゲルスがあった時代。

姉と一緒に、ミーハーサッカー雑誌「Soccer ai」をキャイキャイ言いながら読んでたっけ。Jリーグの選手名鑑にマーカーで線引っぱりながら、テレビでJリーグの試合を見てたりしたなぁ。

中田ヒデは、生き方も含めていまだにファンです^^

 

ジュディマリが大好きで、中2の時に代々木第一体育館に行ったのが人生初ライブ。

 

教会にも引き続き通っていた。
教会学校と礼拝が終わったら自力で帰りたいので、自転車で行くようになった。
帰りに古本屋に寄るのが楽しかったこと楽しかったこと!

教会では子どもたちのリーダーみたいなポジションにされがちだった(中学生がほとんどいなかったから)。

子どもたちが近くの公園とか海岸とかに行きたがってるから、ちょっと連れて行って来てね、みたいな状況になることも多くて、めんどくさかったなー。

あの頃はよくわかってなかったけど、今考えるとけっこう責任重大じゃね?

 

よく覚えてないけど、ひょんなきっかけでエレキベースをGETした!

教会の先輩で高校生の女の子がいて、その子はアコギで、当時デビューしたばっかりのゆずのコピーをしまくっていて、私もギターに憧れてたんだよね。

でも、ちょっと触らせてもらった結果、ギターは難しい!指が痛い!とあっさり諦めモードに^^;

そこにやってきたベース。触ってみたら、思ったよりも面白いし、カッコよかった!

たぶん教会の人経由でもらったから?その後、賛美歌の伴奏とかに参加させられたりして、内心「ださー」と思ってたけど、誰かと合わせられる場所が教会しかなかったから、それはそれで楽しかった氣もする。

基本的には、スピッツとかブリグリとかのバンドスコアを買ってきて、家で一人でコピーして(CDに合わせて)練習して満足してたかな。

 

おばあちゃんが病気で亡くなったのは、たしか中3の時。
悲しかったし、いっぱい泣いたんだけど、今思い返すと、あれって本当の涙だったのかな・・・とか思うときもある。

「こういう時はこういう反応をするものだ」と自分が思っているイメージに合わせていたような氣もするんだよなぁ・・・。

 

高校受験は、けっこうがんばった。

まぁ当時の私としては、これを頑張らないで何を頑張る、みたいなものだったからねー。

志望校は、周りの人全員が「なっちゃんはもちろん小田高(地元の進学校)だよね?」みたいな感じで、なんか知らんけど勝手に決まっていたw

 

教会で洗礼を受けたのも、たしか中3だった気がする。

洗礼を受ける意味って何なのかとか、信仰ってなんなのかとか、よくわかってなかったけどね。そもそも、生まれた時から「これが真実だよ」って用意されて、「これが真実なんだな」と疑わずに育ってきたものを、改めて「信じます」って言うのは相当難しくないかな?

一応、受ける前に半年くらい勉強会?みたいのがあって、牧師からいろいろ教えられるし、意志の確認とかもされるんだけど、それもさ、優等生的なやり方でなんとなく乗り切れちゃうわけさ。そう考えると、どこにも本音のない会話が繰り広げられていたような氣もする。

ただ、大人に近づくにつれて、「教会員」っていうポジションを確保しておかないと、ここには居づらくなるみたいだぞ・・・っていう危機感みたいなものがあっただけだと思うなぁ。無自覚だったけど。

それでも、なれちゃう、クリスチャン。

 

中3の時にした恋は、けっこう印象的。
一緒に学級委員をやったことで近づいた男の子で、本当に大好きだった。

けっこう仲もよかったし、グループでよく一緒に遊んでたし、お互いジュディマリが好きで話が盛り上がったのもあって、私としては「これは、いい感じなのでは・・・!?」と思ってた。

1年間片思いし続けて、高校受験が終わったタイミングで告白したんだけど、ふられちゃってねー。しかも、後から、グループの中の他の女の子と付き合ってたって知って、けっこうショックだったなー。

しかし、この失恋は、大学3年の冬に思わぬ形でつながるのです・・・。

 

1998年のしし座流星群は、母が夜中に車で山の上の方に連れて行ってくれて、友達と一緒に見たなぁ。

いい思い出~☆

 

その4につづく

【イケハヤblogより】「怠け者なんていない」って考え方、いいね!

とうとうイケダハヤトのブログを遡って読み始めてしまいました!

とはいえ、もちろん全部読むつもりはなく、気になったタイトルを拾い読み。

 

さっそく好きな感じの記事を見つけたので、シェアしますね。

この人のブログは日時が表示されないから、いつ書かれた記事なのやらさっぱりなんですけど(戦略的にそうしてるんだろうな~。参考になります!)。

僕の持論に「やってくれないのには理由がある」というものがあります。

 

「怠け者」なんていないのでしょう。特定のことを怠けてしまうのには訳があります。周囲から怠け者だと言われているような人も、モチベーションをもって取り組める特定のテーマには、ハードワークをこなし素晴らしいアウトプットを見せてくれるものです。 

 

“やってくれないのには理由がある” “怠け者はいない”という考え方を僕は愛しています。

僕が受けてきた学校教育では、成績の悪い生徒に「怠け者」というレッテルを貼り、その本人も自分を「怠け者」だと思ってしまうような仕組みでした。

「怠け者」だと思ってしまった本人は、自律する心を傷つけられます。マッチョでない自分を責めます。「自分は努力ができない人間なんだ」と卑下してしまいます。 

 

“怠け者はいないんだ”という気持ちを持っていると、他人にも自分にも優しくなれます。より前向きに、自分が価値を生み出せるものを模索し、その熟達を志向できます。 

 

どうですか!これ!

私はすごく好きな考え方だよ!!

 

以前書いた「やる気」の話とか、

「自分ってほんとダメだな・・・」って思う時の話とか、

昨日の定点観測にも、

本当に、「やりたいことだけやる」「やりたいことしかやらない自分を許す」って、すごく勇氣がいるし(日常の、ほんのちょっとしたことでもね)、常に意識してないとすぐに無意識に自分を追い立てちゃうし、反省しなくてもいいところで反省してしまうし、罪悪感を感じる必要がないところで感じてしまう。

集中力とか、強い意志みたいなのが必要だよ。

そういう、実験中。

いや、練習中、かな。 

 って、書きましたけど、

このテーマって、多かれ少なかれ誰でも向き合ったことがあると思うんだよね。

モチベーション問題。

 

「強制的にやらされる環境に身をおかなければ、
 怠けてしまう(人としてダメになってしまう)に違いない」。

という、根深い共通認識というか、集団的思い込みというか、宗教というか・・・w

「ひきこもり」や「ニート」や「無職」の話題も、「生活保護」や「ベーシックインカム」の話題も、なんなら労働関係の話は必ずここにたどり着く、あるいはここを通過する氣がします。教育関係もそうかな。

もちろん、こういう場合の時も、あるとは思いますよ。人間だしね(むしろ、そういう場合は「疲れてる」とか「自分には向いてない」がわかるサインになったりする)。
でも、A=Bみたいに、絶対に常にそうなるってわけじゃないよね。

自分以外の人に対してこれを思う時には、教育や労働の行い方の押し付けになるし、自分自身に対してこれを思う時には、生活習慣の改善やら自己実現のための行動をおこさなければ・・・(それが人として正しい)!みたいなプレッシャーになると思う。

しんどいよね。

 

「(私自身が)やってくれないのには理由がある

「(私も含めてこの世界には)怠け者はいない

って、まずは自分自身に対して思うことを習慣づけられたら、見ている世界はもっとずっと優しくなっていく氣がします。

 

あとは、そもそも「怠ける=避けるべきこと」ってとこから変えちゃうとかね~。

怠け者~!? いいね!大歓迎!みたいな^^

努力ができるって、そんなに偉いことかねぇ~?みたいな文化を持つ国や地域も、世界にはけっこうあるんですよ。

↑大好きな辻信一さんが世話人をしている、ナマケモノ倶楽部!